自然栽培って具体的には何でしょうか。何をしてよくて、何をしてはいけないのでしょうか。自然栽培農産物を手に入れたい人は、どうやってそれが自然栽培のものであるかを確認できるでしょうか。
明確な基準があったらいいんじゃないでしょうか。
基準がないとみんなが面倒だ
自然栽培の農産物の生産量、流通量が増えてくると、基準を求める声が高まってきます。より安全でおいしいものを求める消費者にとって、「これが自然栽培のものです」とはっきり表示があれば、簡単に望むものを手に入れることができます。生産者も他の栽培方法の農産物との差別化が図れ、自分達の農産物を望む人のもとに、適正な価格で届けられるメリットがあります。
明確な基準のない現在は、「うちは自然栽培です」と言えば済む、言ったもん勝ちの世界です。その言葉を鵜呑みにするわけにもいかず、どんな栽培方法なのか詳しく調べないと安心して買うことはできません。面倒です。もちろん、食べれば違いがわかる、という優れた消費者もいるかとは思います。
生産者は情理を尽くして自分達の栽培方法を説明し、理解してもらえなければ一般の農作物と同じ扱いを受けてしまいます。面倒です。小売、流通でも、どんな生産者がどういう圃場でどういう栽培をしているのか、いちいち確認しなければなりません。面倒です。
ですが、私はあえて、言ったもん勝ちの世界でいいのではないかと考えています。
信頼のモデル、二つ
話はいきなり、「信頼」とはどういうものか、ということに飛びます。議論を進めるのに、「安心して買う」という信頼はどのように担保されるのかを確認しておく必要があるからです。
人間の「信頼」は基本的に、信頼の連鎖でモデル化できると考えられます。要は、信頼できるものが信頼しているものは信頼できる、ということです。そして、最初に信頼するのが何か、ということでモデルは二つに大別されます。ひとつは権威起点の信頼モデル(認証モデルとも言える)、もうひとつは自分起点の信頼モデルです。
権威起点モデルは公的性格をもった権威が厳格に下位認証機関を管理する、という階層構造を持ちます。認証する対象が多いときに有効です。(1) スタートの権威が信頼するに値すれば、そして (2) 階層構造が厳格に管理されていれば、信頼するのは容易です。許認可の各種サービス、各種認証制度、PKI (インターネットや公的認証サービスのセキュリティ基盤) がこのモデルを採用しています。
他方、自分起点モデルは長く付き合って、頻繁に会って、あるいは詳しく説明を聞いて、自分で調べて、これは信頼できるというものを信頼するモデルです。ややこしい書き方をしましたが、生活していく中で誰でも普通にやっていることです。
権威起点モデルの破綻
認証すべき対象が多い場合に有効に機能し、サービスを受ける側が信頼できるモノ、情報を選択できる権威起点モデルですが、認証対象が多くなると綻びが生じます。これは社会科学上の定理と考えてよいと思います。
実体験としては自明のことと思いますが、権威起点モデルにしろ自分起点モデルにしろ、連鎖によって信頼は減衰します。「自分が信頼するもの」より、「自分が信頼しているものが信頼しているもの」は信頼度が下がる、ということです。この信頼の減衰を組み込んだ権威起点モデル、およびそれを採用した実例を寡聞にして知りません(ご存知の方がいたら教えてください)。
先ほど、権威移転モデルが機能する前提として階層構造が厳格に管理されていることを挙げましたが、連鎖による信頼の減衰により、この前提は崩れるのです。繰り返しになりますが、これは必然です。
面倒は楽しめるもの
自分起点モデルに従ってサービスを利用することははっきり言って面倒です。規模を拡大することも困難です。広域的なモノ・情報の流れに対応できません。
でも、それでいいのではないでしょうか(特に食にかんしては)、というのが私の主張です。
実世界で生活をしていくということは、本質的に面倒なことの連続です。しかし、幸いなことにその面倒さは、それ自体を楽しむことのできる面倒さです。自分で面倒さを追うことを放棄し、信頼を人に委ね、その代わりに人々は何を得たのでしょうか。日々の生活が楽しくないとしたら、それは面倒を放棄したからかもしれません。
太古の昔に戻れ、と言うのではありません。もっと面倒さを楽しんだらどうでしょう、ということです。今までも、これからも、より便利になった信頼システムに裏切られることは少なくないはずです。そこでそのシステムの運営者に不満を言い、憤りを感じるのは、間違っているとまでは言いませんが、本質的に不完全なシステムをどの程度信頼するのか、自身にその選択の自由があったことをもっと自覚していいのではないかと思います。
公的・広域的な基準ができたらどうなるか
自然栽培とは何か、明確な基準はありません。その中で自然栽培をしている人は、その栽培方法を選択する基になった想い・理念があります。人それぞれだと思うので、具体的は書きません。
ただ言えることは、自然栽培は目的ではなく、想いを実現するための手段だということです(目的としている人もいらっしゃるかもしれませんが)。
基準が、特に公的な基準、広域的な効力を持つ基準ができたらどうなるでしょうか。他の農産物との差別化で付加価値が生じるとなれば、自然栽培自体を目的とした(あるいは儲けることを目的として自然栽培という手段を採用する)生産者の割合が増えてきます。産業として成り立つためには営利性も重要だし、たとえ理念が欠如していても自然栽培の圃場面積が増えることは歓迎すべきことかもしれません。しかし、想いは軽視されがちです。たとえば、基準さえ守れば、圃場外でバンバン除草剤を使うという自然栽培農家が出現したとき、それを許容することはできるでしょうか。
逆に、熱い想いを持ちながら基準から少し外れた栽培をする生産者、圃場の関係で基準を守るのが困難な生産者を阻害する可能性があります。
ではどうすればいいのか
結局、自然栽培とは何か、という基準は、生産者、流通小売に携わる方、消費者、それぞれが私的に持てばいいのだと思います。面倒を楽しめばいいのだと思います。
生産者のみなさん、手間暇をかけて想いを伝えましょう。想いは秘めていても構いませんが、何を大切にして、どんな手段を使っているのか、あなたの生産するものを求めている人のところにあなたの生産したものが届くよう努力しましょう。まあ、私が言うまでもなく実践している人ばかりだと思いますが。
消費者のみなさん、自分が何を信頼するのかという判断を、お上に委ねるのはやめましょう。自分で調べ、考え、食べて、判断しましょう。マスメディアで喧伝されていることイコール信頼できるということなのか、冷静になってよく考えてみましょう。簡単に得られる信頼は、簡単に崩れるかもしれません。
小売に携わる方。自然栽培の農作物を扱おうとするのには、やはり何らかの想いがあると思います。その想いを消費者に伝えましょう。あなたが自分を起点にした信頼システムで信頼した生産者の想いを消費者に伝えましょう。「これがうちの考える自然栽培の基準です」というものを考え、採用してください。消費者の信頼を得れば、あなたの信頼する生産者は、間接的に消費者に信頼されることになります。これも何の実績のない私が言うまでもなく、みなさんやってらっしゃることですね。
流通に携わる方。今のところ、私にはいい考えがありません。流通を考えると広域的性格が重要になっていきます。信頼の連鎖が重なっていきます。しかし、そうなると信頼性の維持が困難になります。自然栽培農産物の生産量、消費量が増えたときには流通の担う重要性はあがってきます。うーん、よくわかりません。あなたのできることを頑張ってやってください。
公的ガイドライン
公的・広域的な基準は不要というか、むしろ害があると主張しましたが、公的・広域的にはガイドラインがあるとよいかと思います。何が違うの、というところですが、公的な基準があったら、その基準に対する責任を持つのは公的機関です。一方、公的なガイドラインを参考にしつつ、私的な基準を決めたら、その基準に対する責任を持つのは個々の生産者、流通小売業者です。
ガイドラインがあると、想いがあっても手段が間違っている生産者に、より正しい方法を採用してもらえる、というメリットがあります。
あくまでもガイドラインは私的基準を決めるのを楽にするものではありません。私的基準を決め、それを守っていくのは、それぞれが苦労してください。
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