オカルトと似非科学と科学(と科学の徒もどき)

自然栽培に、科学は必要で、似非科学は不要もしくは害毒で、オカルトはあってもなくてもよい、と考えています。冒頭の「自然栽培に」は「人間社会に」と置き換えてもいいかもしれません。

物事を正しく認識し、そのうえで行動を決定していくには、物事に対する態度を明確にし、信じるものと切り捨てるものを明確にする必要がある、とは全然思いません。むしろ、現実的に「大人として」で対処していくには、物事の信憑性への態度を一時保留し、「これはまあ七割がた信頼できるかな」みたいな状態をキープし続け(より正しくは経験に基づいて信頼性を更新していく)た上で判断、行動していく必要があると思います。内田樹的用語の「中腰」に近いでしょうか。
でも、中腰で居続けることが難しい人は少なくないようです。「わかった気」になって精神の安定を確保したいわけです。そのバックボーンになるのが科学だったり、似非科学だったり、オカルトだったりします。

まず、オカルトから。
はっきり言って、私は苦手です。体が受けつけないというか。ただ、他の人がオカルトを信奉するのを愚かだとは思いません。それはそれでいいんじゃないかと思います。私の体が受けつけないということは、それが偽だということを意味しません。むしろ、真実を含んでいるかもしれません。オカルトを楽しめたら人生がもっと豊かになりそうな気もするのですが、いかんせん、体が受けつけないので …。
オカルトのいいところは、「わかった気」になって精神の安定を確保しつつも、ある種の敬虔さを維持できるところです(かなり独断的ですが)。傲慢になる危険性が少ないところです。(カルト的集団には危険な面もあるか? 要熟考)
あと、オカルトは自身がオカルトであることを自認していることが多いですよね(主観)。似非科学との大きな違いです。
半ば脱線しますが、栽培について言えば、栽培作物に「心」を想定するのは、私はオカルトだと思っています。「心」を想定するのは一向に構わないと思います。「心」を想定することで、よく観察するようになり、扱いもソフトになって無用な損傷を防ぐ効用があると考えます。ただ、植物に心を想定するのに、ヒトごときの低い精神レベルと同程度の精神性を想定するのはどうかと思います。傲慢ではないでしょうか。高等植物に精神を仮定するなら、ヒトごときが理解不能な高い精神レベルを想定するのが妥当ではないでしょうか。

次に似非科学。
これはできれば排除したい対象です。内に対しても外に対しても本物の科学の顔をしているところが問題です。私程度の知識でも即座に看破できる稚拙な似非科学はまだ笑っていられるのですが(それでも簡単に信じてしまう人が少なくないようです)、手の込んだものは似非科学と見抜くことが困難です。
よく、「博士号を持っている人が言っているから」と権威を信頼の根拠にしたり、「テレビでやっていたから」とメディアを信頼の根拠にしたりする人がいますが、私の経験上、これらはまったくあてになりません。とんでもない似非科学を唱えている人が医学博士を自称していることが多い印象があるのですが、気のせいでしょうか。
いずれにせよ、科学並みの信頼性をもって扱われ、実際には害をなすようなことを人々にさせるところが問題点です。毒にも薬にもならないようならまだいいのですが。
あ、あと、「善意」には注意です。基本的に、科学それ自体は善悪とは無関係です。善意が伴なったら似非科学の可能性が高いです。

あと、科学の徒もどき。今、即席でつけた名前です。
いちばん害が大きいのはたぶん、これです。
真の科学の徒は、特定の科学理論に精通しているとともに、その理論の適用範囲、限定条件についても、常に意識しています。つまり、理論が成立するには一定の条件があり、その範囲内では理論が通用する(限定があるからこそ精緻な理論展開が可能で、再現性のある追試ができる)ものの、その外では理論は通用しなくなること、その理論で説明不可能な現象が発生することを、常に意識しています。還元的なアプローチを採用した場合は、理論の限定性は特に顕著です。生物が活動しているスケールでの現象は、結果に影響を与える要素が多く(生物の安定性を確保するには、量子論的効果が無視できるだけの原子数が必要と思われます)、組合せ爆発を起こすので、還元的な理論をそのままの形で応用するのは無理があります。影響を予測できないのです。
何が言いたいのかよくわからないかも知れないので例を挙げます。
「この病原性細菌にはこの抗生物質が効く」という理論を応用して(というかそのまま使って)抗生物質を多量に使った結果として何が起こったでしょうか。
「この害虫にはこの殺虫成分が効く」という理論を応用して(というかそのまま使って)農薬を多量に散布した結果、どうなったでしょうか。
「植物の生育には窒素が強く関与している」という理論を応用して(というかそのまま使って)化成肥料を多量に使った結果、農産物は、土壌は、河川は海洋はどうなったでしょうか。
これらは同じパターンを示しています。科学理論の誤りではなく、それを応用する自称「科学の徒」である「科学の徒もどき」による応用方法の間違いです。人類はそろそろこの誤りのパターンから学び、同じ轍を踏まないようにしてもいいんじゃないか、と思います。が、まだまだこの過ちは繰り返されることでしょう。自然栽培が認知されるようになったとしても、「ではこの微生物資材を投入すれば万事 OK」とかそういう話はいくらでも出てくることでしょう。我々にできることは、この誤りのパターンに気づき、自分たちだけでも「化学の徒もどき」から脱することではないでしょうか。

カテゴリー: 一農夫の戯れ言

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