小島農園の田んぼの水は、宮沢湖から来ています。「入間第二用水」と呼ばれていて、2020年3月に、用水路を2面コンクリートにする工事がされました。そのことがきっかけで、「入間第二用水」に興味を持ちました。
小学5年生の息子の夏休みの課題に「社会科研究」があったので「入間第二用水」について調査してみないか?と言ったところ、「いいよ」と言ったので、二人で一緒にいろいろ調べてみました。
入間第二用水が作られる前の飯能の田んぼ
「飯能の水とくらし」から抜粋します
(1)米作りと水
作物は水がなければ育ちません。なかでも、米を作る稲作にはたくさんの水が必要です。
飯能のふきんでも、入間川(名栗川)や高麗川の水をひいたり、小さな溜池の水をつかって水田が開かれ、米作りが行われてきました。
けれども、飯能のふきんは台地が多く、水をひきいれることが難しく、また、稲が育つ時期には、どこの農家でもいっせいに水をつかうので、雨の少ない年には水がたりなくなり、苗をうえることができなかったり、せっかくうえつけた稲の苗がうまくそだたなかったりしました。
また、川の水をとりいれるために作ったせきも、大雨で川の水が増えるたびにこわされて、農家の人たちはそのたびにせきをなおさなければなりませんでした。
こんなわけで、飯能のふきんの米作りをする農家では、雨の少ない年でも安心して米作りができるようになればいいと、いつも考えていました。
飯能市精明地区では、入間第二用水の用水路がある田んぼと自然に水があつまる水路を使う田んぼがあります。2020年の8月の日照りで、自宅前の田んぼの隣を流れる水路(自然に水が集まる)の水はとても少なくなりました。今は、この水路の水を使って稲作をする人がいないので困りませんが、40年前には、この水路沿いの田んぼはみな耕作されていたので、日照りのときはさぞ困ったことと思います。
田んぼは、水を張っていた方が草が生えないんです。水が溜められないと草ぼうぼうになります。お米の穂が出て花が咲く時期は水が大切で、花の時期の日照りは稔りにも大きく影響します。
昭和6年~昭和16年 宮沢溜池と用水路が作られる
「飯能の水とくらし」から抜粋します
昭和になってすぐ、毛呂の西側の山間を流れる大谷木川をせきとめて溜池を作り、その水を米作りに利用しようという計画がまとまり、昭和4年にその工事がはじまりました。(こうしてできたのが鎌北湖です)
飯能でも同じように溜池はできないか、そういう意見があちこちで聞こえるようになりました。
そうした声が高まり、昭和3年関係のある町や村の代表が集まってはじめての相談が行われました。
それからあと何回も話し合いがもたれ、また、専門の技術者にも調査をしてもらいました。その結果、溜池は精明村の宮沢地区に作るのがもっとも適当だということになり、その計画がまとまりました。
また、昭和のはじめのころは、国中が不景気で、仕事をしたくても仕事の見つからない失業者がたくさんいました。ここに大きな溜池を作る工事がはじまればたくさんの人手が必要になります。米作りのための水不足がなくなる上に、失業者を救うことにもなります。
昭和4年3月、関係の町や村の代表者は、宮沢地区に溜池を作ってもらいたい、という陳情書を埼玉県議会に差し出しました。大工事ですからそれぞれの町や村の力ではとてもむりなことなので、鎌北湖と同じように県の仕事として溜池を作ってもらいたいということだったのです。
宮沢地区には小畔川が流れていましたが、水量が少なかったので、名栗川から水をひくことになりました。小瀬戸から水をひき、5kmのトンネルを通す大工事です。
宮沢溜池の堰を作るのも大変です。この頃はブルドーザーもショベルカーもなかったので、土を運ぶのも人力でした。近くの土がなくなると山を削ったそうです。途中からトロッコができ、陸軍から使われなくなった馬10数頭を譲り受けて、トロッコを引かせたそうです。工事が進んでくるとようやくブルドーザーも一台だけ仕えたそうです。長さ240m、地面からの高さ18m、上の部分の幅が6m、底の部分は100mを超える大きな堰堤ができました。大雨のときに、溜池の水がいっぱいになって堰堤を乗り越えないように、余水口もつくられました。溜池は、満水時で深さ16.5m、水量85万トンになりました。
用水路も整備されました。前から水が流れたところを広くしたり、流れで崩れないように川岸をコンクリートで作り直したりするものと、新しく用水路を作る工事です。溜池から流れる水は、日高市の高麗川地区、高萩地区を流れる1号線、小久保トンネルを通って飯能市の精明地区をながれる2号幹線水路に分かれ、2号幹線水路は、精明地区で平松線用水路、生命線用水路、鯉ヶ久保用水路に分かれます。2号幹線水路は、入間市の笹井の堰につながります。これらの用水路の全部の長さはおよそ56kmになります。
工事は昭和16年3月に終わりました。ほとんでおの工事を人の手にたよらなければならなかったうえ、トンネルの難しい工事が多かったこと、そして戦争があったことです。満州事変から日中戦争があり、昭和16年は太平洋戦争がはじまりました。こんな時代なので、工事が始まってしばらくすると、工事に必要な資材も思うように集まらなかったし、人手も足りなくなったそうです。
工事にかかったお金は、96万円(今のお金だと百数十億円だそうです)、工事にかかった人ではのべ106,400人だそうです。
宮沢溜池の水を利用している水田の面積は、全部で400ヘクタールを超えるそうです。
観光地としての宮沢湖
昭和30年に西武鉄道が周りの山を買い取り、遊園地や動物園を作りました。池にはボートを浮かべて、ヘラブナやワカサギを釣ることができる観光地になりました。残念ながら2008年に閉園しました。
その後、ワカサギ釣りは2017年ごろまで続きました。
2018年からメッツァビレッジ・ムーミンバレーパークが開業しました。
感想
昭和初期の大工事、大変だったと思います。よく話をまとめて、5kmのトンネルも掘って、巨大な堰を作り、長い用水路を作ったなと思いました。宮沢溜池を作るために、2件の農家さんが住んでいたところを明け渡したそうです。おかげで、今入間第二用水が流れている田んぼでは、水に困ることなく米作りができていて、とてもありがたいです。農業を始めて2年目は、入間第二用水ではない、しぼり水による用水の田んぼを借りていました。水が欲しいときにないので、草取りをしてもまた草が生えてしまいます。湿田でトラクターが入りにくかったり、大変でした。
ムーミンバレーパークで盛り上がっている飯能ですが、実は「農業用のため池なんだよー」、「昔の人が頑張って作ったんだよー」と、みんなに知ってほしいと思いました。
参考文献
入間第二用水土地改良区が1956年ごろ発行した「入間第二用水土地改良区概要」と飯能市図書館が発行した「飯能の水とくらし-宮沢湖・上水道のはなし」を読みました。
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