太平洋戦争と鶴ヶ島市の今泉記念ビルマ奨学会

ご縁が重なって、1月30日に鶴ヶ島で開かれた「今泉記念ビルマ奨学会の新年会」に参加しました。

私とミャンマーの縁

私の父方の兄の奥さん(私の伯母)のお父さんが、太平洋戦争のときにビルマ(現・ミャンマー)戦線の情報参謀だったそうで、伯母はお父さんの手記から「ビルマ作戦回想録 第三十三軍情報参謀の祈伏」という本を出版しました。

2008年に、伯母と伯母の知り合いでビルマ戦線に従軍した方とミャンマーの戦跡を訪ねる旅に同行させていただきました。本を手に、お父さんが記載している場所を探します。兵士だったおじいさんからは、どれだけ辛い退却だったかたくさんの話を聞きました。たくさんの日本人がインパール作戦で命を落としたこと、ミャンマーの人たちが敗走する兵士を助けてくれたこと、イギリスから独立するきっかけになった日本の行動を感謝していることなどを知り、太平洋戦争とは何だったのか?考えるきっかけになりました。

今泉記念ビルマ奨学会の新年会を知りました

偶然にも、前職のIT会社がミャンマーオフィスを立ち上げ、オフショア開発をすることになりました。去年のお正月に伯母に紹介したところ、「今泉様のビルマ奨学会の新年会に参加することを薦めてくださいました。なにかご縁が生まれるかもしれないと。」臨月だった私は、誘われましたが参加しませんでした。

去年の11月、清流マーケットで知り合いの方に「ではまた来年の4月に」と別れの挨拶をしたところ、「来年はミャンマーに行くことになりました」と聞き驚きました。旦那様がシニア海外協力隊で赴任するので、ご家族で暮らすそうです。そうだと思い、またお正月になって伯母に連絡したところ、「ぜひ今泉さんにおあいなさい」と紹介していただきました。なにか、縁を感じて私も一緒に参加させていただくことになったのです。

今泉会長にお会いして、感銘を受けました

参加のご連絡を受付担当の方にしたところ、今泉会長について新聞の切り抜きを送っていただきました。私費2億円を投じて、今までに200人ものミャンマー人留学生に奨学金を与えていたそうです。今泉会長が卒寿のときに書かれた素晴らしい文章を発見しましたのでリンクします。
「ミャンマーへの報恩」今泉清詞(今泉記念ビルマ奨学会会長)

私たちの世代に知っていただきたいミャンマー人の言葉がありました。戦後の昭和四十九年に現地にはじめて慰霊祭に行ったときのことだそうです。

「我われは子供の頃から、
“幸せの神は東から来る”と親から教えられてきた。
 その幸せの神とは日本人だった。

 あなた方は知らないかもしれないが、
 我われはイギリス軍に植民地化され、
 実に酷い目に遭わされてきた。

 その支配を日本軍が終わらせてくれたおかげで、
 やっと人間的な生活が送れるようになった。
 これが感謝せずにいられるか」

学校では、太平洋戦争は日本が悪かったと学びますが、私が訪れたことがあるミャンマーでも、台湾でも、インドでも、年配の方は日本に感謝してくれています。アメリカ、イギリス、フランスなどの大国に、小さな日本が立ち向かった姿は、アジアの国々に勇気と希望を与えていたのです。太平洋戦争の後で、独立できたたくさんの国があります。

卒寿を超えている今泉会長の立ち振る舞いには、感銘を受けました。会場の誰よりも丁寧で、みなさんの話をしっかり聞いていました。ミャンマーとの縁が薄い私には、とても場違いなところではありましたが、今泉会長と、今泉会長を慕うミャンマーの元奨学生の方たち、そして奨学会を支えている日本人の皆さんに出会えて、久しぶりに心がドキドキ高ぶりました。国際交流が大好きで、青年海外協力隊にも参加したほどですから。

お金のためにいろいろな欲が渦巻いている今の世で、ミャンマーのためにここまで尽くしていらっしゃる。それも隣の鶴ヶ島市で。私も人を大切にして、目標に向かって誠実に生きていきたいと思いました。帰る道々、私のしていることがとっても小さく見えてしまいました。高ぶる心が収まって、ようやく、それでも私は飯能で農業を支えるのだという氣持ちが戻ってきました。大きなことはできないので、身近な人に幸せの輪を広げていく。小島農園らしいアプローチで、心をもっともっと磨いて。

最後に、この機会を与えてくれた伯母に感謝します。

カテゴリー: つながり

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*